中堅医薬品メーカーの飯貫さん（meshinuki 仮名４８歳）と午後４時頃株主総会議事録の書き方と商法改正について説明していたところ、なんだか眠たそうな顔をしていてこちらの話に身が入っていない様子。孫太司法書士はメシヌキ氏が激職についていることを承知しているので、会社を出て近くの喫茶店で説明をするという提案をし、彼を連れ出した。
アイスコーヒーを飲みながら彼が総務課長と秘書室長を兼任している理由を聞くと、総務部長を置くと事件屋との交渉がうまくいかなくなることが多いから、制度上は残したが事実上は廃止したとのこと。なぜ事件屋と関係があるのかを聞いてみた。

この会社は本社と営業本部が中野区の同じビルの中にあり、工業薬品、医薬品、農薬などの商品は厚木と群馬県の２ヶ所の工場で製造し、在庫がなくなるとトラックで関東１円の営業所に配送し、そこから各顧客である医院や病院、工場、事業所に営業マンが届けている。大学新卒の給与が３５万円もあるので就職ガイダンスはちっとも困らないと人事部は言っているが、実は期中の退職者が異常に多くて、それを補うため中途採用のための求人広告はしょっちゅう利用しているし研修所もフル稼働らしい。この会社を概観するには社員の顔色を見てお話をすることが手っ取りはやい。
　　
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
ボーナスが「立つ」くらい高給なのに、営業マンの顔は何故か誰も皆くたびれているように見える。それもそのはず、日本は軍事産業を第２次世界大戦の戦勝国に押さえ込まれ、航空機産業も弾圧されたので優秀な技術者は家電、自動車、薬品、造船などに流れてしまい、医薬品製造各社の商品も各社における優秀な社員が製造しているのでどれも遜色なく、勢い派手に広告を出したり、営業マンが顧客をこまめにまわり、接待攻勢を掛け続けなければならなくなる。その結果、担当社員は毎晩別の客と入れ替わり飲んでいるのでつい飲み過ぎと寝不足でフラフラとなり、他社製品の二日酔いの薬にお世話になっている状況なのである。中には顔の肌がが土色になってしまい、何か孫太司法書士がよい薬でも差し上げ様かな？と思ったこともしばしばである。酒に強くないと薬が売れない、とは実に驚きの裏事情であったが、どの営業マンも異口同音にそうしなければ爆発的ヒット商品でも発明しない限り継続的に売れることはない、と口を揃える。何か一つでも核となる商品さえできれば、それを使って抱き合わせ販売を独禁法に怯えながらでもやりとげるパワーと知恵が沸いてくるものだが、各社の技術部門の実力が拮抗しているのでそれも出来ず、毎日午前様になるぐらい残業と接待で忙しい。

深夜の配達で疲労してくると、４０人もいる社員がどんなに気を使って仕事をしていても注意力が散漫になり、つい自動車事故を起こす。それでその日の深夜もその対応に駆り出され寝不足となったそうだ。
詳細を聞いてみたら、飯貫課長が残業を終えて帰宅したのが午後１１時、風呂に入ってビールを飲み始めた途端に江東区の警察署から「お宅の社員が交通事故を起こした。交差点を右折する時、曲がり切れずに角のお店に突っ込み、ショールームをめちゃくちゃに破壊してしまった。幸い夜も更けていたので通行人や店の客などがいなかったので人身事故にはつながらなかったが、運転手本人が落胆していて聞き取りが進まない。ついては上司である貴方に至急ここまで来て欲しい。」という電話がかかってきたので、場所を確かめ、さっきまで着ていたスーツを着直してタクシーで現地へ直行し、社員を勇気付け、家族を呼び、後始末をする会社に連絡し、先方の被害会社の社長や専務を警察無線で聞出してもらって取り敢えず謝罪意思を告げ明日の段取りを伝え、一旦帰宅したあと再度会社の上司に事項状況を報告する。それとともに翌朝早々先方の会社の総務部長に面会を求め、現状復帰に必要な工事期間、業者名、費用などを打ち合わせする。関係者は工事業者を除き皆さんカンカンに怒っており、とうの運転手兼営業マンはしょげかえっているので取り敢えず上司として早期に謝罪の意思を伝えることが一番肝要な仕事なのである。この初期動作を手抜きすると、後日保険会社の調査会社の社員と称するものや、精神的ショックを受けたという女性の自称代理人たる無職のこわいオッサンなどが次々と会社に現れてしまい、会社のカウンター越しにどなりまくったり直接社長室に乗り込んでいったり辺り構わず電話したりして、全社的に収拾がつかなくなる。中には「社長の名詞ぐらいもらえないとオレの立場がない、日当で食ってるんだこっちは」などというチンプンカンプンな交渉をしてくるやつとか、右翼の「街宣車で乗り付けるぞ」とわめく者まで出てきて、番度（ばんたび）警察を呼ばなければならなくなる。
警察官は仕事だから一応パトカーで急行してくれるものの、毎度毎度じゃそのうちに「もっとうまくやってくれませんかね、メシヌキさん」と言われてしまう。恐怖と寝不足で何時の間にやら彼の生活は定時に食事できないというメシヌキ状態になってしまった。もちろん毎日の食事時間が不定期な人は一年を通してもカレンダー通りには生きられず、子供の授業参観日や運動会でも予定通り実行できた試しはなく、結婚記念日や旗日、誕生日、同窓会、親戚の法事に至るまで、不義理を繰り返している始末。全くよく働くものだ、とマゴタ司法書士は感心してしまう。しかも敗戦処理専門だから頭を下げっぱなしである。あちこちに頭を下げまくっていると、牛のべごっこみたいに動物人形モードに変身、変心しそう。謝り続けているうちに秋には米搗きバッタみたいになってしまう。最近はだいぶ慣れてきて、事故内容により予測がつくので小さな損害のため交渉金額が小さければ即行動するという原則は無視し体をいたわっている。共通して言えることは事故被害の大小に関わらずとにかく相手の主張を聞くまではひたすら頭を下げてしゃべってもらい、主張を聞きだし、その後の対応まで時間を措いて、相手の怒りを和らげることが大切なようだ。しかし気が疲れる。気が疲れると体も疲れる。深夜突然のアクシデントに対応していると体内時計も狂うようだし、食欲もなくなる。
それで最近のメシヌキ課長はまだは５０歳前なのに顔のつやがなくなり土色に変色してきた。
勿論これほどの激職なので社長からは特別に接待交際費枠を毎月５０万円ももらっているのだが、総務部の仕事もこなさなければならないので、なかなか使い切ることはできない。それに自分がこのポジションから抜け出すためには適性のある部下を育てなければならない。現場や営業所を廻るたびに部下と一杯やるのは後輩探しのスカウトのためである。

孫太司法書士は議事録の話しをひととおり終えると、今朝の交差点突っ込み事故処理の態様を聞き、別の会社の対応話し交えながら今後の飯貫課長の対応を推測しながら更に示談金などの解決処理方法を聞出す。ベテランだから当然それくらいは先読みしているだろうと思ったからだ。そして２０分ぐらいたったときにようやく核心部分に到達して盛り上がってきた。すかさず場所を居酒屋に移動し、「ま、今日はもう、会社へ戻らなくってもいいでしょ、２〜３時間しか眠ってないんでしょ？少し飲んで早めに帰って休んだほうがよいですよ。上司には司法書士と打ち合わせのため時間が長引くので直帰すると電話しておけばいいですよ。」と切り出す。ビールで乾杯して咽喉を湿らせてから話し始め、謝罪方法エトセトラへと発展していった。

聞くところによると、ある日の被害者はなんだか怪しい雰囲気の会社であった。人身事故始末なのだが、保険会社を通じて交渉を続けていたので金額については既に重要な部分に関して合意成立の見通しが立っていたのだが、被害者を雇用している会社の会長さんが何やら「日本後始末協会の会長を兼ねていて、その関係で・・・・」という口上が事前に伝えられていたからだ。
なんだそりゃ？
東京都にはそれはそれは得体の知れない団体が数あるけれど、そんな名前のものは初耳だった。
メシヌキ課長は「社長室長」という肩書きを付した名詞を持参して定刻３時、先方の会長のフロアーの受け付けに着いた。
事情がよくわからないところで怒鳴られても気が動転してしまっておどおどし、余計な示談書に判を付けさせられそうになったこともあるので、勿論印鑑は一切持っていない。拇印を押せ、と言われたこともあったのでそれだけは要注意だ。こんな不安があるから今日も昼食は抜いている。お腹が一杯になると神経が集中しないので次第に交渉前には食事しないようになっていたのである。不規則な食習慣がたたりすっかりガリガリに痩せてしまったのだが既に生活習慣病となっており、このポジションにいる限りは治らない。そして胃薬が常備薬となっている。

　　　　　　　　

７階にあるその会長室の受け付けに定刻着いて用意していた名詞を出して名前を告げたところ白壁だらけの応接室へ通された。他に誰も連れてくるな、と言われたので一人で来た。毎度の尻拭いだけど、なんだか雰囲気が違う。１１月なのにやけにひんやりとしてうすら寒い感じがする。どんな話しになるのか、わからないが、「偉いもんが直接謝罪に来い」「金だけで事を済まそうとしちゃいかん」という電話の内容を思い出しながらひたすら耐えてじっと経過を待つ。呼び出される時間がいつになるかわからないから余計に不安だ。相手の情報が事前にわかっていればいい訳や表現にも工夫ができるというものだが、計算外の無駄な空白時間のやり場はうまく自分の心を落ち着かせることができにくい。やけに咽喉が乾くのでお茶は全てすすってしまった。そして少しずつ冷たく静かな時が過ぎてゆく。
　　　　　　　　　　　　　　　　　
そこで１５分ほど待たされたあと、受け付け嬢ではなく黒い上下のスーツを着てヒゲをたくわえ、頭髪をびっしっとオールバックのリーゼントで固めた辮髪風の屈強な若者２人がドアをノックして入室し、まるでゲストを迎える時の様に丁寧に挨拶して言う。
「さ、こちらへどうぞ、会長がお待ちです」とお迎えにきたのだが、なんだか法廷に引き出される直前の刑事被告人みたいな自分の姿を連想してしまった。「お待ちです。」って言われたって、こっちだってさっきからずっと待たされていたんだ、と言いたいところだが、今更ここへ来てそんなでかい態度もとれないところが辛い。
おもむろに重たい腰を上げ、２人の後についていく。前後を固められて歩くスピードも調整されつつ、長い殺風景な白壁の廊下の突き当たりを左に曲がった先の部屋のドアの前で立ち止まる。その間に課長は内心をアヤマリモードに入れる。すなわち、背中を丸め、踏み出しを小さくし、顔をうつむき加減にしておく。ここまで準備したのに、堂々と廊下を歩いたのではこれまでの努力は水泡と帰す。首をうなだれながらとぼとぼ歩く。自分のムードを盛り上げるためだ。

事前の準備も必要だ。
スーツはみすぼらしいものは避ける。ダークグレーか紺色のビジネススーツにバリットしたクリーニングをかけたものを新着する。ワイシャツもビッシット糊の利いたやつを着用する。色は白がいい。最も悩むものはネクタイだ。何年やってもこれだけはいつも悩む。今日は水玉模様にした。パッと散るイメージで一気に解決しなければならない。サラリーマンでも彼ほどの地位に着くと結構経費がかかるのである。さてここからも肝心な注意が続く。

いよいよ本番だ。
おひげの若者がノックをする。コツ、コツ。すぐに返事として中から低い声が聞こえたような気がする。
木製の荘厳な丈の高いドアを開けると、その広い部屋の１０ｍぐらい向こう側にヒゲヅラの爺さんが黒い皮のバックチェアにふんぞりかえりながら座ってじっと、一点、こちらを見ていた。
ドアから会長の椅子までの距離はたったの１０ｍだけだが、部屋の周りには全く何もなく、ただ、灰色のカーペットが延々と真っ直ぐに続いているだけなので異様に広く感じられる。銀座の一等地にこの無駄な空間を養うことができる会社はそう多くは無い。普通はデスクや書棚で一杯なはずだ。その不自然さを感じたのでその距離はやけに長く、遠く、会長という爺さんの存在が偉大に感じられた。その何もない環境が交渉の立場を有利にするためにわざと作られた物言わぬ無言の空間、そして演出されたもの、と感じられた。
そのかつて経験したことのない空間の異様さに言葉を失う。頭の中は真っ白、顔は真っ青。

し、しかし、歴戦のつわものであるメシヌキ課長は謝罪表現のプロでもあるので、気を取り直してとっさに探す。
天井は勿論のこと、壁にも窓にも何もないのに何を探すのか？

ここまで聞いて孫太司法書士は狼狽する？
社長の詫び状を入れた封筒も持たず、手土産も持たず、保険会社との打ち合わせ票も持参してきていない。
（何も持ってくるな、誰も同伴するな、と言われているから）

とはいえ、気を利かして金一封を懐にしのばせるのは常識なのではないか？

相手はこの会社のどんな存在なのか？

からだひとつの状態で
殺風景な会長室で
金額交渉の当事者でもないひげ中顔だらけの被害会社の会長に対して

今、正に怒られる寸前において
何を探して
そしてどのように謝罪の言葉を言うべきなのか？

　　　　トボトボト続く